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《 新型コロナウイルスに関するお知らせ 》

2020年4月14日

新型コロナウイルスが猛威をふるい、皆さまにおかれましては日々大変な状況でお過ごしの事と存じます。
鎌倉はせのわでも、新型コロナウイルスの1日でも早い収束を願い、そして変わらぬ日常の支えとなるよう、下記の対応を致します。

1. 緊急事態宣言に伴い、期間中の「鎌倉はせのわ」内の集まり、会合を自粛致します。

2. 会合の自粛に伴い、梅まちめぐりのインスタグラムフォトコンテストの入賞者選定発表、スタンプラリーの完走者抽選の時期を緊急事態宣言期間の終了後と致します。何卒、ご了承ください。

3. 会員店舗のテイクアウトやデリバリー情報、また営業時間の変更や休業などの案内を、鎌倉はせのわインスタグラム内で随時発信致します。
どうぞ、ご活用ください。

4. 2020年の「 鎌倉はせのわ 」さくら○日は、新型コロナウイルス感染拡大防止の為、中止と致しました。

以上、ご確認の程、宜しくお願い申し上げます。

猫のまなざし -6-

2020年2月16日

2月から5月14日まで長谷観音内の観音ミュージアム(一昨年の秋オープン)で「長谷寺のちょっとむかし展—幕末・明治・大正・昭和—」という展示が開かれています。これはむかしの写真が中心で、他にフィルム映像もあるそうです。

すいません。書いてる本人が見てないといけないんですが、知ったのがつい昨日、長谷の実家に帰ったその帰りのことで、すでに開館時間(4時半まで)は終わり、この原稿の締め切りまでにはどうしても見に行く時間がとれないのでホームページで見られる写真だけでとりあえず思いを馳せています(長谷に思いを馳せるところがミソ)。

私は昔の写真が好きで、写真集を何冊も持っていますが、私にとって鎌倉が写っている写真が特別おもしろいのは言うまでもありません。

「これはどこだろう?」

「あの道が昔はこんなだったんだ!」

「これ、左右が逆に焼かれてるんじゃないか、……」

と私はいちいち感心して長いこと見入っていて、妻にあきれられます。昔の写真をそこそこたくさん見てきた私でも、この展示はホームページ掲載の写真だけでも別格な感じがします。お堂の再建のための大木を運ぶ牛車(!)、それを見守る沿道の人たち。今だったら住民の迷惑とか交通渋滞とかに配慮して、深夜に大型のトラックかトレーラーでススッと運搬してしまうかもしれないけど、この写真には道に白い頭巾らしきものを被った人が並んでいる。

工事の成功を町全体で祈っているようにも見えるし、お堂となる木をひと目見るだけでもご利益があると思って人が集まってきたのかもしれない、などという想像もできる。……とにかく、昔の写真はこちらの想像をいろいろ掻き立ててくれるから楽しい。

ここからは私自身の記憶だけど、長谷観音の入口の交差点が今みたいに広々としたのは東京オリンピックの頃で、それ以前はいちやなぎ米店の斜め前(鎌倉いとこの向かい)には川が流れていた。地図で見ればわかるけれど、この交差点は十字の右上(北東部分)に三角スペースがあり、そこがかつては川でぽっかり空いていた。その川はもちろん消えてなくなったわけでなく、右下の恵比寿屋の脇で顔を出す。40年ちょっと前のゴールデンウィークの真っ最中に、川に蓋していたアスファルトが陥没して大型ダンプカーが尻からずぶずぶ沈んだことがあった。あれはすごかったなあ!

交差点から長谷駅に向かっていって、鎌倉彫の白日堂の細い道をはさんだ隣には横浜銀行の支店があった。サイコロキャラメルわかりますか? あんな感じの小さな洋風の、まるで西部劇から出てきたみたいな、趣きのある建物で、子供の私は母と行くたび、銀行強盗が馬に乗って拳銃持って襲撃してくるのを期待したものだった。……が、襲撃されるより前に撤退してしまった。残念!

 

 

<プロフィール>

保坂和志(ほさかかずし)

小説家。1956年山梨県生まれ。幼少時。鎌倉長谷に転居。

長谷幼稚園。第一小学校。栄光学園中学・高校、早稲田大学卒。

90年「プレーソング」で小説家デビュー。

95年「この人の閾(いき)」で芥川賞、

97年「季節の記憶」で谷崎潤一郎賞・平林たい子文学賞、

2013年「未明の闘争」で野間文芸賞を受賞。猫好きとして知られる。

2018年「こことよそ」で川端康成賞を受賞

猫のまなざし -5-

2020年1月17日

このあいだ、高校の同窓会で、長谷の実家に何度も遊びに来ていた横浜の友人4人が口
を揃えて、
「えっ? 鎌倉には大船観音の他に長谷観音っていうのもあったの? 大船観音だけだと
思ってた」
 と言ったから私は、「鎌倉で観音といったら長谷観音に決まってんだよ!」 と憤慨した、と同時に軽く傷ついた。そして傷つきながら、これが郷土愛なんだろうなと思った。
 長谷には大仏と観音という2つの観光名所があって、直線距離で300メートルくらいし
か離れていないわけだが、子供たちの遊びのグループは、大仏周辺と観音周辺とで別々で
、私は観音周辺のグループだった。だから長谷観音が大仏より知名度が劣ると思うとちょ
っと悔しい。
 長谷の中心を通る大通りを鎌倉駅の方から来ると正面に見えるのは長谷観音のある長谷
寺の山だ。その山とそこの木々に囲まれた観音堂の屋根、という風景を長谷のシンボルと
感じて育った。長谷寺からは朝と夕方の6時に時を告げる鐘が聞こえてくる。子供時代、
うちの門限は6時で、母と私の取り決めは「観音さまの鐘が鳴り終わるまでに帰ること」
だったから、鐘が鳴り出すと私は家へと猛ダッシュした。
 観音堂は石段をのぼった山の中腹にあり、そこからは鎌倉の町と海が見渡せる。鎌倉の
町が見渡せるスポットはもう1ヵ所、地元では「お神明(しんめい)さま」と呼んでいる
甘縄神社で、こっちは長谷の氏神さまだ。私の家は長谷観音と甘縄神社の中間なので、お
神明さまにも観音さまと同じくらい愛着がある。
 調べてみると、創建が長谷観音が736年で、甘縄神社が710年。どちらも意外なほど古
く、この仏さまと神さまに見守られて、長谷を中心とする鎌倉の西側の町が開かれていっ
たんだろうなあ、と思う。
 毎年9月には甘縄神社のお祭りがあって、12月の18日には長谷観音の参道で歳の市がある。私が子供の頃(つまり50年前)には子供向けのオモチャが今とは比べものにならないくらい少なく、この歳の市の露店でしか売っていないオモチャを買ってもらうのが楽しみだった。八幡さま(鶴岡八幡宮)に行けば露店は一年中あったけれど、地元で買ってもら
うところに喜びがあった。歳の市は冬なのに不思議と寒さを感じなかった。
 ……などと、今回は大仏さまをそっちのけで書いてきたが、よその土地の大仏を見るた
びに、「鎌倉の大仏が一番!」と思ってることは、わざわざ言うまでもない。
 

 

<プロフィール>

保坂和志(ほさかかずし)

小説家。1956年山梨県生まれ。幼少時。鎌倉長谷に転居。

長谷幼稚園。第一小学校。栄光学園中学・高校、早稲田大学卒。

90年「プレーソング」で小説家デビュー。

95年「この人の閾(いき)」で芥川賞、

97年「季節の記憶」で谷崎潤一郎賞・平林たい子文学賞、

2013年「未明の闘争」で野間文芸賞を受賞。猫好きとして知られる。

2018年「こことよそ」で川端康成賞を受賞

猫のまなざし -4-

2019年10月21日

海辺の町に育った人間は、なんと言っても夏が好きだ。泳ぎが特別得意じゃなくても、
サーフィンやボードセイリングをするわけじゃなくても夏になると心が弾む。みんながカ
ラフルな服を着て、日差しがカッと明るくて、潮の香りがする風が町に吹く。よそから来
た人たちは鎌倉駅のプラットホームに降り立つだけで潮の香りを感じるらしい。一年じゅ
うそうかと言えばそんなことはなくて、冬は北風だから町に海からの風は吹いてこない。
 だから反対に夏の終わりは嫌だ。何が嫌だと言って日が暮れるのが早くなるのが嫌だ。
温暖化で九月がどれだけ暑くなっても、日が暮れる時間だけは変わってくれない。
 人の心の状態は日照時間に影響される部分が大きく、冬に雪ばかり降って太陽の光が射
すことが少ない土地に住む人は他の土地の人よりウツになる人の割合が高いと言われる。
デトロイトに何年か赴任していた友人は、
「冬はホントに嫌だった」
 と言っていた。デトロイトは五大湖の周辺でアメリカでもかなり北に位置する。海辺の
光に馴れた人間が一年の半分が雪で閉ざされる土地に住むのは監禁されるようなものだ。
彼はよく無事に帰ってきたものだ。
 そんなわけで海辺に育った人間は海のない土地に育った人たちより基本的に暢気で気楽
だと思う。私のデビュー作の『プレーンソング』という小説は若者が集まって日々だらだ
ら過ごす話で、「なんだ、こいつら」と思う人もいるが、おじいさんの代から三浦半島に
暮らしてきた人は、
「これこそ、海辺の人間のメンタリティだ。
 親戚のおじさんや従兄弟たちといるようだった」
 と、おもしろい感想を言ってくれた。
 夏の終わりの夕暮れどきは、そういう海辺の人間の心にさえも陰翳をつける。夏の終わ
りの感傷はどこか失恋に似ているが、失恋と違って、この夕暮れどきという同じ時間にみ
んなが少し寂しくなったり少し心細くなったりしている。しかしその気持ちは語り合われ
ることはなく、一人一人の心にゆっくり沈んでゆく。

 

<プロフィール>

保坂和志(ほさかかずし)

小説家。1956年山梨県生まれ。幼少時。鎌倉長谷に転居。

長谷幼稚園。第一小学校。栄光学園中学・高校、早稲田大学卒。

90年「プレーソング」で小説家デビュー。

95年「この人の閾(いき)」で芥川賞、

97年「季節の記憶」で谷崎潤一郎賞・平林たい子文学賞、

2013年「未明の闘争」で野間文芸賞を受賞。猫好きとして知られる。

2018年「こことよそ」で川端康成賞を受賞

猫のまなざし -3-

2019年9月24日

「春告鳥」とも書くウグイスは春だけ鳴くわけでなく夏の間もずっと鳴きます。
鎌倉は私が子どもの頃の、四十年五十年前はウグイスを聞くのは珍しかったが、宅地が増えて山の緑が減ったのがたぶん原因で、今では長谷の家の庭先で鳴くのが聞こえる。あんまり当たり前に聞こえてくるから、
「一日中鳴いててうるさい」
なんて言う人までいるくらいだけど、ウグイスのホーホケキョがうるさいと感じるくらいに鎌倉は今でもまだとても静かな土地なんだと思う。長谷の周辺では山の近くの裏道(どこでもすぐ山ですが)に入っていくとたいてい聞こえる。うちは父のお墓が光則寺にあって、光則寺は山に囲まれているからお墓参りしているあいだ、ずうっとホーホケキョが聞こえてくる。
「ホーー」とまず長く鳴いて、ひと呼吸おいて「ホケキョ!」
「ホーー」からひと呼吸の間にいたる時間が静寂を感じさせてくれて、「ホケキョ!」で空気が小さく鋭く切り裂かれる。あるいは空間に活が入る。
 もう一カ所、大仏の脇を行ったところに山里のような野原のような趣の場所があり、私は去年そこの道を歩いていたら立ち止まった私の前と後ろの両方から「ホーーー、ホケキョ!」が聞こえてきた。ウグイスはオスしか鳴かないと言われているから、あれは愛の鳴き交わしでなくテリトリーの主張をし合っていたということだろうか? そこはしかしたぶん私道なので、今はこれ以上詳細な場所を書くわけにはいきません、すいません。
 夏になるとウグイスよりもっと聞こえてくるのがホトトギスだ。ホトトギスは〈トッキョキョカキョク〉という語呂合わせ(正しくは「聞きなし」)があるくらいでウグイスよりだいぶせわしない。でもそのせわしなさが汗をかいているところにはちょうどよく感じられる。ウグイスより鳴き声と鳴き声の間隔も短い。聞こえ出したらずっと聞こえている。
「卯の花の匂う垣根に、ホトトギス早も来鳴きて」(夏は来ぬ)
 ということは、ホトトギスも庭まで降りてくるということなんだろうが、鎌倉ではホトトギスは山のわりと高いところで鳴くみたいだ。

 

<プロフィール>

保坂和志(ほさかかずし)

小説家。1956年山梨県生まれ。幼少時。鎌倉長谷に転居。

長谷幼稚園。第一小学校。栄光学園中学・高校、早稲田大学卒。

90年「プレーソング」で小説家デビュー。

95年「この人の閾(いき)」で芥川賞、

97年「季節の記憶」で谷崎潤一郎賞・平林たい子文学賞、

2013年「未明の闘争」で野間文芸賞を受賞。猫好きとして知られる。

2018年「こことよそ」で川端康成賞を受賞

猫のまなざし -2-

2019年6月02日

三月。鎌倉の小学生だった自分は何をしてただろうと思い浮かべると、そわそわ?ふわふわ? 自然に外に出て行った記憶が体の奥で動き出す。

昭和30年第40年代の鎌倉の子供の外での冬の遊びはコマ回しと決まっていた。今では高価な特産品となっているらしい木製の大山ゴマだ。あの頃はそれがどこにでも売られていて、子供達が簡単に買えて何個も持っていた。直径10~20センチ、その大きさのコマをぶつけ合う。やっているとすぐに体が熱くなった。

コマは春になると終わった。コマ以外にもいろいろな遊びが出来るようになるからだろう。冬の曇った海岸なんてホントに寒くて長くはいられなかった。春は日差しがなくても子供にはじゅうぶんな暖かさだ。家の中で遊ぶことはほとんどなくなった。長谷の子供たちの遊び場は、観音の境内、大仏の駐車場と周辺の路地、甘縄神社の境内……と、さすが神社仏閣が多い。今ほど境内にいろいろな碑とかそういうものが建ってなかったから広々していた、と同時に起伏がいっぱいだから〈ドロケン〉やるにも〈ポコペン〉やるにも絶好だった。ドロケンは泥棒と警察がなまった2組に分かれた集団鬼ごっこ、ポコペンは缶蹴りの変形の隠れん坊でこれは鎌倉独特の遊びかもしれない。

日曜日は野球もやった。私が小3のとき和田君という中3のリーダーがいて、学年ばらばらの10人以上の集団でワイワイ浜まで行って三角ベースをやった。やってると浜まで散歩にきた近所の兄ちゃん、おじさんが混ざる。小3の私は途中からオミソ扱いだったが、大人たちの中にいるだけで楽しかったな。

ところで鎌倉の山は落葉しない常緑樹が中心だ。だから秋の山はほとんど紅葉しない。ひと冬あまり活動していなかったくすんだ葉が山を被っている。常緑樹とはいっても春先の葉はモスグリーンに感じる。落葉樹の山とはまた別の、静かに眠っている感じがある。三月のうらうら暖かく風のない日に鎌倉で山を見ているとなんとも、ものがなしい気分になる。

間違わないでほしいのだが、「ものがなしい」は「悲しい」とは違う。もっとずっと深く、生きることの奥に横たう感覚だ。薄く雲に被われた乳白色の空の下、風がなく体は緩み、意識せずにどこからか漂ってくる花の香りを感じている。山は静かにそこにある。

 

<プロフィール>

保坂和志(ほさかかずし)

小説家。1956年山梨県生まれ。幼少時。鎌倉長谷に転居。

長谷幼稚園。第一小学校。栄光学園中学・高校、早稲田大学卒。

90年「プレーソング」で小説家デビュー。

95年「この人の閾(いき)」で芥川賞、

97年「季節の記憶」で谷崎潤一郎賞・平林たい子文学賞、

2013年「未明の闘争」で野間文芸賞を受賞。猫好きとして知られる。

2018年「こことよそ」で川端康成賞を受賞

猫のまなざし -1-

2019年2月27日

長谷と縁の深い芥川賞作家の保坂和志氏。

その保坂氏に寄稿していただいている

長谷の市「かわら版」のコラム「猫のまなざし」を

「はせのわ」のHPでも紹介させていただくことになりました.

 

猫のまなざし -1-

保坂和志

 

これから毎回この「長谷の市かわら版」に文章を書くことになりました、保坂和志です。

小説家です、いちおう芥川賞作家でもあります、あんまり知られていませんが。生まれたのは山梨ですが、幼稚園に入る前にここ長谷に引っ越してきました、通ったのは長谷幼稚園です、幼稚園では長谷観音の今は山主のゲンちゃんと同級生でした、幼稚園で「同級」って言うんでしょうか?

鎌倉の人で鎌倉幕府を知らない人はいない。そんなあたり前だけど鎌倉の人にとって「幕府」と言ったら江戸幕府でも室町幕府でもない鎌倉幕府だ、全員がそう思っている。地域の特性というか偏りはホントに面白いものだと思う。鎌倉の人は「武士」と聞いたら源頼朝を連想する。つまり鎌倉の人にとって武士といったら鎌倉武士だ。江戸時代の旗本や戦国武将は連想しない。武士といったら源氏の武士、そんなことあたり前だと私は思っていたが、よその人に言ったらものすごくびっくりされた。全国的には「武士」と聞いて鎌倉武士を思い浮かべることはないらしい。

ついでに言えば、鎌倉の人は源頼朝のことを嫌いじゃない。何しろ実家の隣の人は猫にヨリトモと名づけたくらいだ。しかし全国的には弟の義経を殺害した冷酷な男というイメージで、頼朝は義経と比較されてとかく評判が悪い。もちろん鎌倉の人で平氏に肩入れする人なんか一人もいない(たぶん)。でも源氏の比較でも一族が滅亡したという判官びいきで(あ、判官とは義経のことだ)平氏の方がきっと思いれのある人が多い。

と、ここまで書いてきてハタと気がついた、<鎌倉武士>というイメージを持ってくれている観光客がそもそも少数派なんじゃないか?鎌倉は寺社の町か、湘南の一角の海の町というイメージが圧倒的なんじゃないか?

しかし鎌倉駅周辺の街灯をみてください。街灯には旗みたいなのが懸っていて、紺地に白で鎌倉幕府に関連した武士の名前が染め抜かれています。「下馬四つ角」という停留所は「しもうま」ではなく「げば」と読み、幕府に参上するのに武士はそこで馬から降りたという地名の名残り(?)です。それから長谷に家があったノーベル賞作家の川端康成は晩年、鎧武者の幽霊に悩まされたという噂が地元ではあります。これも当然、鎌倉武士で戦国武将ではありません

 

 

<プロフィール>

保坂和志(ほさかかずし)

小説家。1956年山梨県生まれ。幼少時。鎌倉長谷に転居。

長谷幼稚園。第一小学校。栄光学園中学・高校、早稲田大学卒。

90年「プレーソング」で小説家デビュー。

95年「この人の閾(いき)」で芥川賞、

97年「季節の記憶」で谷崎潤一郎賞・平林たい子文学賞、

2013年「未明の闘争」で野間文芸賞を受賞。猫好きとして知られる。

2018年「こことよそ」で川端康成賞を受賞

紫陽花まちめぐり

2018年6月23日

今年もはせのわでは「紫陽花まちめぐり」と題して、

6月~7月上旬の梅雨の時期、

加盟店の店先に素敵な紫陽花の鉢植えを飾り、

長谷にお越しの皆さまをお迎えしております。

 

はせのわの紫陽花は、町中でみられる紫陽花とは少し違う品種をご用意。

こんな紫陽花もあるのね! と道行く皆さんも、足を止めてくださっています。

 

紫陽花は、土壌によって花の色が変化することから、

その花言葉は「移り気」や「無常」など、ちょっとネガティブな意味合いで

使われることが多いですね。

でも最近は、小さな花が寄り集まって一つの玉になっている姿から、

「家族団欒」といった意味で使われることも多くなりました。

 

元々、日本固有の花で「額アジサイ」と呼ばれるものが原種でした。

それがアメリカやヨーロッパなどに持ち込まれて品種改良され、

逆輸入する形で現在お花屋さんなどに多く流通されているのが

「西洋アジサイ」になります。

 

いまでは、国内の生産者さんがこの品種改良の手法で、

様々なハイブリッドの西洋アジサイ、ハイドランジア(英名)を栽培し、

色鮮やかな園芸品種として出荷されています。

 

端正込めて作られた珍しい紫陽花。ぜひ、ご堪能ください!

 

TAMAYO

 

「雪桜」

2018年3月25日

3月21日、長谷は雪景色です。

今年は桜の開花が早く、光則寺の桜のつぼみも、だいぶ膨らんでいます。

開花を待つばかりの桜の枝が、とても寒そうです。

でも、翌日からは暖かくなり、春本番!

間もなく、光則寺のこの参道も、桜一色になるでしょう。

3月31日は、長谷のお花見「桜〇日」が開催されます。

満開の桜の下で、楽しい一日をお過ごしください。

Nao

 

文学から見た長谷 その1

2018年1月12日

萩原朔太郎、大正5年の避寒

 

「避寒」という言葉。今はほとんど耳にすることはない。ビル群などの都市活動から発せられる熱のせいで、東京都内を寒さの厳しいところと感じている人は少ないのだろうが、高層ビルが建ち並ぶ前の東京の冬は厳しく、鎌倉など温暖な町で冬を過ごす「避寒」という生活スタイルがあった。

今から102年前の大正5年12月、詩人の萩原朔太郎は郷里 前橋の寒さを避け病気療養のため坂ノ下の旅館 海月楼に滞在した。滞在のもう一つの目的は第一詩集『月に吠える』の編集を行うことだった。30歳の朔太郎は、この詩集で口語自由詩に先駆者として一躍名をあげ、文学史にその名を刻むことになるが、本人はまだ知る由もない。朔太郎は、翌年の2月まで滞在。詩人の日夏耿之介と交友するなどし、健康を回復させ前橋に帰っていった。

由比ヶ浜の海を眺めながら朔太郎は何を思ったのだろう。この時と確定はできないが、朔太郎は滞在中、雑誌に詩を何篇か発表している。その中の1篇をひいてみよう。

 

「冬の海の光を感ず」

 

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

さびしい大浪(おほなみ)の音(おと)をきいてこころはなみだぐむ。

けふ沖の鳴戸を過ぎてゆき舟の乗手はたれなるか

その乗手等の黒き腕(かなひ)に浪の乗りてかたむく

 

ひとり凍れる浪のしぶきを眺め

海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め

ここの日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情でさへ

あはれを求めて砂山の影に這ひ登るやうな寂しい日だ

遠くに冬の海の光をかんずる日だ

ああわたしの憂愁のたえざる日だ

かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ

あの大きな浪のながれにむかつて

孤独のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ

わたしの傷める肉と心。

 

冬の由比ヶ浜の海は、朔太郎が詩に書いたように、低い太陽が、海を神秘的に輝かせることが多い。慌ただしい街を抜けだし、冬の由比ヶ浜の光る海とよせる波の光景に心を落ち着かせることは、現代の避寒といえるかもしれない。(鎌倉文学館 小田島一弘)

 

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海月楼の絵はがき 個人蔵

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坂ノ下附近の海