石碑でたどる 長谷歴史さんぽ
2015年2月28日
その1「桑ケ谷療養所跡」
歴史をたどるには3つあると思います。
第1は、現存している寺社など。
第2は、石碑で残っているもの。
第3は、記録で残っているもの。書物・伝承も含みます。
特に石碑は良いですねえ。「この存在を後世に伝えよう」という強い意志を感じます。
第1回は、「桑ケ谷療養所」を取上げます。
(石碑は、大仏通りで鎌倉能舞台へ向かう入口あたりに建っています。)
鎌倉に残っている石碑の殆どは「鎌倉町青年団」によって建てられたものなのですが、
この石碑は、「長谷上町文化会」によって建てられています。やはり町の強い意志を
感じます。石碑のウラには次のように書かれています。
「嘗てこの町に居られた鎌倉彫の名家、後藤弘慶氏の遺族から、町内へ記念品寄贈の
の申出があったので、之を建ててその厚志に沿うことにした。」
長谷上町文化会 昭和三十七年参月
さて、桑ケ谷療養所のことです。
鎌倉時代、長谷寺から大仏に向かう途中の谷戸(谷の入口、山すそ)は「桑ケ谷」
(くわがやつ)と呼ばれていました。桑ケ谷療養所は、1278年、極楽寺の開山
(初代住職)忍性上人によって開かれた療病施設です。忍性62才の時です。
北条時宗(第8代執権)が、貧民救済のために発願したと云われています。
当時鎌倉は日本の中心として栄えましたが、人口の集中による疫病や伝染病も発生・
流行させました。この桑ケ谷療養所によって救われた人は数十万人ともいわれ、慈善
救済事業に力を注いだ忍性は「医王如来」と崇められたとのことです。
・・・肝腎の石碑です。次のように刻まれています・・・
桑ケ谷療養所跡
「今を遡る七百年の昔 永仁年間 鎌倉幕府執権「北条時宗公」が極楽寺僧「良観房忍性
上人」に命じ、貧民救済の目的を以て療養所を設けたるは、この桑ケ谷なりと云う。
又、文永年間 大旱魃(かんばつ)による飢饉の際,施粥の炊き出しをなしたるもこの
地なりと伝えらる。 爾来、年去り人逝いて幾度変転 今は当時を語る跡形もなし。
只、この里に立ちて静かに偉人の善業を回顧すれば、松韻風と共に来り我等に訓うる
ものあらん。 茲(ここ)に桑ケ谷の歴史を伝え往事を偲ぶよすがとせんとす。
極楽寺縁起に曰く、「或は凶年なる則ち飢人を深沢谷に集めて粥を施し餓を救す。」と。
また曰く「ここに元帥平時宗朝臣(北条時宗)、上人を請じて一朝斎莚を設けて
問訊し答話の因みに、乃ち上人元帥公に談じて曰く、「病人を治養する者は、八福田の
随一にして仏菩薩の最行なり。」 公これを聞きておおいに感歎せり。故に桑ケ谷に
療病所を新たにし、以て領国の病者を集めて治養を施す、と。以てこれが証とする
ことを得べし。」
・・・(後半は漢文。読み下しは筆者による。)
当時の長谷上町文化会のみなさんの強い思い入れがこもっていますね。
長谷の誇るべき歴史です。
(仁)